僕が絵について喋るワケ


 
 
先週末のオープニングトークを経て、ゆったりと展示が走り出した。
僕もiTohenの鰺坂さんも二人して早口なので、
まるでまくし立てるように喋ってしまったけれど、
そのうちのほんの少しでも、1フレーズでも持って帰っていただけたなら嬉しい。
 
絵の印象とのギャップがあるのか、
「意外とよくしゃべりますね」とか、
「画家なのに弁が立ちますね」などと言われることがある。
そう言われて特に良い気も悪い気もしないのだけど、
それはきっと「画家=無口」というステレオタイプ的なイメージに加え、
芸術を言葉で語ることへのタブー感、もとい苦手意識が多くの人の根底にあるのだと思う。
 
 
ここ数日、鰺坂さんが貸してくれた
『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(山口周著/光文社新書)
という本を読んでいる。
“論理”や“理性”に重きを置く「サイエンス」を武器に成長を続けてきた企業が、
昨今では軒並み閉塞的な状況に置かれている。
その現状を打破するためには、数値では計ることのできない“直感”や“美意識”に頼る
「アート」の力が有効である、というのがこの本の要旨。
コンサルを生業にしている著者から、
美術の世界から離れた場所で働くビジネスマンに向けて書かれた文章は、
とても明解で説得力があり、勤め人ではない僕でも構えることなく読み進めることができる。
 
大変読み易いうえ、書かれている主張に関しても全面的に同意できるのに、
どうも読んでいて息苦しさが募るのは、
現代の社会においていかに芸術が軽視されているか、
改めて突きつけられた感じがするからであろう。
様々な偉人たちの言説や科学的な実験結果を引用しながら、
こんなにも懇切丁寧に“直感”や“美意識”の重要性を説明しなければならないということは、
翻ればそれ程までに今の世の中が“直感”や“美意識”に対し無頓着であるということの証明だろう。
示唆的な文言を拾いつつも、どうしてもため息が止まらない。
 
 
様々な問題に対して“直感”や“美意識”を頼りに意思決定すること自体、
芸事に関わる人間にとってはあまりにも当たり前なことである。
ただ、それを当たり前とくくってしまうことが、結局はこのような分裂を助長する。
僕にとっての常識が、大手企業に勤めるサラリーマンの常識と重なるとは限らない。
(むしろ重なるところを探すほうが難しいかもしれない)
デザインを学んでいた学生時代にある教授が言っていたことを思い出す。
「社会に出たら、絵でのコミュニケーションは万能ではないということがわかると思うよ。
君らが思っている以上に伝わらないから。そのときに言葉が必要になるんだ。」
 
「『アートの有効性』なんて、今更何言ってんだ!そんなもの自明の理ではないか!
なのにみんな一向に気付かないじゃないか!だからこんな世の中なんだ!」
と、大声で吐き捨てたいのが正直な気持ちだ。
でも、そもそも相手は“自明の理”とは思っていない。違う言葉が必要だ。
僕は山口氏のようなクールな言葉は持ち合わせていないけれど、
絵を描き終えるまでの間に熱し続けた言葉なら持っている。だからそれを使う。
 
 
ここ最近、展示を企画する際は意識的に音楽や食が絡むイベントを打たないようにしている。
理由はいくつかあるのだけれど、一番は展示している絵を静かに見ていただきたいからだ。
イベントは一時の盛り上がりをつくることができる反面、
その間は展示している作品が置き去りにされている場合が多い。
僕にとって、あくまで展示の主役は壁にかかっている絵であって、
主役を食ってまで音楽を鳴らしたり食事を用意したりする必要性を今は感じていない。
ただ、どこかで人が集るポイントをつくるのも展示においては大切なことだとわかっている。
そこで、派手なイベントを打たない代わり、しつこいまでにトークイベントを行っている。
 
トークイベントの良いところは、
他のイベントと違ってあくまで展示されている絵が主役のままで居ることだ。
しかも話が終わったあとで、もう一度絵を見てもらうこともできる。
トーク前と後では絵の見え方が少なからず変わるはずで、
絵がより身近に感じられる場合もあるだろうし、
より複雑に感じられる場合もあるだろう。どちらも素晴らしいことだ。
絵には言語化できない領域が確実にあるけれど、
だから絵を語るべきではないとは思わない。
絵の廻りを旋回することでその輪郭をなぞることはできると思うし、
絵に限らずどんな分野でも、その言語化できない中心の部分を
じっと見据えるための言葉というのものがあると僕は思っている。
 
多くのお客さんから「絵のことは良くわからないんだけど」というセリフを聞く。
これは、原画に触れる機会をあまりにつくらなかった美術教育の過ちが言わせたセリフだ。
でもそういうお客さんの中には、その後に続けてちゃんと自身の感想を伝えてくれる方も多い。
知識や経験の有無に関わらず、そうやって自分の言葉で語るだけで十分なのだ。
むしろ、ぼくら作家はそういう言葉こそ聞きたいのだ。
そこでふと思う。これは逆の立場でも言えることなのではないか。
作家こそ、ちゃんと自分の言葉で語っているだろうか。
借りた言葉ばかりしゃべっていないだろうか。
口下手だからと口を閉ざしていないだろうか。
 
 
アーティストを取り巻く環境は相変わらず過酷で、
救いの手はそうそう降りてこない。
かの本が出版されていることを考えれば、少しずつ状況は変わって来ているのだろうが、
その効果が僕らのような末端の作家にまで届くにはまだまだ歳月を必要とするだろう。
結局は自力で何とかしていくしかない。
ただ絵を描くだけで足りないのなら、僕はこれからも絵について喋り続ける。
しつこく。しつこく。
 
皆が同じように振る舞う必要はない。皆それぞれのやり方を見つけたら良い。
僕が否定したイベントだって、もちろんひとつのやり方だ。
何にせよ、表現を伝えるうえで大切なのはうまさや流暢さではない。
血が通っているかどうかだ。
その誠実さが最後は作家を救うはずだから。
 


 
書いていたら夜が明けてしまった。
『Pictures for Books, Books for Pictures.』
本日11日(土)も在廊日。iTohenにてお待ちしております。
今後の在廊日は以下の通り。
11日(土)、12日(日)、17日(金)、18日(土)、19日(日)、25日(土)、26日(日)。
基本的に終日在廊しますが、4日(土)と25日(土)は13時過ぎからの予定です。
それから繰り返しになりますが、以下の2点、ちょっとご注意を。
 
※金土日の12:00-19:00のみの営業です。
※ご入場の際は1ドリンクオーダーをお願いします。
 
僕は寝坊に気をつけます。
 
 
photo : Kano Chihiro

4 years ago


 
iTohen搬入日。
『みち』の原画を久しぶりに壁にかける。
 
『みち』が出版されたのは2016年。
ただ、それより前に私家版として刊行していたので、
実際に原画を描いたのは14年夏のこと。
まだ東京の下町の古いアパートに住んでいて、
狭さのために居間とアトリエが渾然一体となるなか、
家人の洋服を絵の具で汚して怒られながらも日々絵を描いていた。
アルバイトがつらかったけど、Kiteの活動も少しずつ熱を帯びてきていて、
本を作ることへの情熱でなんとか毎日をやりすごしていた。
 
あれから4年。
28歳から32歳になった。
相変わらずガキだなぁとも思うし、もうガキじゃねぇしな、とも思う。
 
過去の自分が今の自分の絵を見たときにどう思うか、ときどき想像してみる。
きっと怪訝な顔をするだろうな、と想像する度に思う。
「そんな顔をしないで欲しい。確かに、少し絵は丸くなってきたよ。
でも、それは悪いことじゃないんだ。逃げでもない。
動物もよく描くようになった。まだあんまり得意じゃないけどね。」
 
今よりいくばくか素直な筆跡を見て、少しむず痒い気持ちもあるけれど、
もう一度自己紹介するのには悪いタイミングではないだろう。
新しい本も出たし、引っ越して友達も増えた。
僕の知らないところで本を買ってくれている人もほんの少しはいるだろう。
そんなみなさんに改めて、僕のこれまでとこれからをお見せしたく思います。
 
こんにちは。はじめまして。お久しぶりです。
 


 
『Pictures for Books, Books for Pictures.』
梅田のiTohenにて、日付変わって本日3日からスタートです。
僕の在廊日は、4日(土)、5日(日)、10日(金)、11日(土)、12日(日)、
17日(金)、18日(土)、19日(日)、25日(土)、26日(日)です。
基本的に終日在廊しますが、4日(土)と25日(土)は13時過ぎからの予定です。
4日(土)は17時からオープニングトークがありますので、そちらもぜひお気軽にご参加下さい。
詳細はiTohenまで。それから以下の2点、ちょっとご注意を。
 
※金土日の12:00-19:00のみの営業です。
※ご入場の際は1ドリンクオーダーをお願いします。
 
みなさんにお会いできるのを楽しみにしています。

Pictures for Books, Books for Pictures.


 
そろそろ方々にチラシが渡っているころだと思う。
あっという間に8月の背中が見えてきた。
もうすぐiTohenでの展示が始まる。
3年前の初個展も同じく8月だった。
あのときは描き下ろしだったけれど、今回は絵本の原画がメインになる。
 
自主レーベルのKiteから『みち』の私家版を刊行したのが14年秋。
直後に始めたTwitterでiTohenをフォローしたのをきっかけに、
鰺坂さんがwebショップから『みち』を注文してくれた。
 
そこから起こった出会いの連鎖は次第に形を帯びて、
4年の間に計4冊の本が出版され、
絵本の原画展を含めれば20近い場所で展示の機会をいただいた。
またその間に拠点は東から西へと移り、
今は生まれて初めて海辺の町で暮らしている。
 
4年前とは付き合う人も様変わりした。
そもそも、4年前はアルバイトと家の往復だけで、
休日も家で絵を描くか、外出しても家人と映画を観に行くぐらいで、
長いこと人付き合いというものを持っていなかった。
それを思えば随分人と会うようになったと思う。絵と本のおかげだ。
僕にとって彼らはいつでも橋をわたしてくれる存在なのだ。
 
特に区切りをつけたかったわけではない。
ただ、長かった巡回展の最後に4冊の絵を同時に並べるというアイディアが
自然と浮かんで来た。それは最後の場所がiTohenだったからであろう。
 
『みずのこどもたち』の巡回展の最終地がiTohenだったのは偶然ではない。
この絵本のきっかけになった初個展『running water』の開催地で終わることは、
絵本の原画展としては異例の長さである全国巡回を計画するにあたって、
最初に決めたシナリオだった。
 
当然、振り返るだけの終わり方はしたくない。
これまでとこれからが同時に見えてくるようなものにしないと。
僕は、絵を始めてからこのかた、ずっと一続きのイメージを描いている。
今もまだその途中だということを、並べることで見せたいと思う。

『Pictures for Books, Books for Pictures.』は8/3から。

 


 
日付変わって本日21日(土)の15:00から、梅田のジュンク堂書店7階ギャラリーにて、
『はじまりが見える世界の神話』原画展の無料トークイベント。
編著者の植朗子先生と再びご一緒します。
 
前回ポポタムでの植先生との対談の録音を編集の内貴さんから頂き、
先ほど通して聴き直してみた。
自分の声を録音で聴くあの居心地の悪さは皆経験があると思うが、
僕はそれに加えてもうひとつの奇妙な感触を持っている。
それは自分の声が双子の兄の声に聴こえるのだ。
喋っている内容は記憶に新しいし、間違いなく僕が話しているのだが、
その口調、間の取り方、口癖まで、まるで兄がしゃべっているみたいなのだ。
聴いていると何だか分裂するような感覚に襲われる。
僕はこんなにも兄と喋り方が似ているのか。
 
双子はよく神話のモチーフに登場するらしい。
そのへんも明日植先生に聴いてみよう。

絵を描き続けていくために


 
先週の土曜日、iTohenにて『_act_ LAYER』展の座談会に参加させてもらう。
登壇者はactの城下浩伺さん、TACOさん、林智樹さん、
ゲストにマリアーネさん、宇加治志帆さん、そして僕の計6人。
actのプロデュースを手掛ける林さんを除く全員が画家、美術作家。
そして当然聴衆の中にも作家さんがちらほらと。
ゆるく話しましょうと言いながら、
絵の話で真剣にならないわけがない、そんな空気だった。
座談会はホストである林さんの宣誓ではじまり、次第に熱を帯びていった。
大きく見れば、この日のテーマは「どうやって美術家として生きていくか」
ということだったと思う。
 
富裕層に席巻された現代アートの行き詰まり。
自分の感覚から大きくずれる作品の値段。
絵を誰に向けて売るのか。
そもそも描き手は売り手を選ぶことができるのか。
ギャラリーの役割。
所属しないこと。個人であること。
セレクトショップと絵。
インテリアとしての絵。
本屋と絵。
絵を買うことが日常になるために。
家にある絵と美術館にある絵。
大きな箱で絵を見せたいという想い。
展示することを目標としない。
生活の中から生まれる作品。
絵を描かないこと。
 
話はぐるぐる飛び回り、気付けば3時間の長丁場。
(話している僕らが一番楽だったであろう。)
それぞれがそれぞれの希望を携えながら、
それぞれのペースで制作に打ち込んでいることを知る。
奇しくも、僕らは皆“業界”に見切りをつけた作家だった。
一廻り、二廻りと絵を描き続けた結果、
個人として作品を作り、好きな場所で、
好きな値段で発表するようになった作家だった。
同士だった。
 
絵を描いて生きていくためにはどうしたら良いのか。
絵描きの僕らはどうしたらもっと生きやすくなるのか。
ひとつの答えは「個人でいること」なのではないだろうか。
 
絵を描き始めた頃、絵描きの大先輩に、
「画家になったらお金の問題は死ぬまで付きまとうよ。」
と言われたことがある。先輩は続けて、
「でもね、絵を描く喜びを知ってしまったら、それぐらいの代償はしょうがないのよ。
そんな中で絵を続けていくために必要なことは3つ。
1つ目は“健康”。絶対病気はできないよ。最後は身体だから。
2つ目は“仲間”。価値を共有できる仲間を持つこと。
3つ目は“根拠の無い自信”。この3つがあれば、大丈夫。」
 
幸運にも1つ目は持っている。
(今のところだけれど。)
2つ目はここ数年で増え続けている。
(新しい出会いに感謝。)
そして3つ目は、たまに落としたり、また拾ったり。
(いつか拾えなくなるのでは、という心配は常にある。)
 
帰りの電車でもまだ頭が熱っぽく、
記憶を必死に反芻していたら降り過ごしてしまった。
のぼりの最終電車は既に無くなっていた。
マンガ喫茶で時間をつぶし、夜明けの漁港を眺めてから始発で帰った。
 


 
来週もお話します。今度は自分の企画で。
21日(土)の15:00から、梅田のジュンク堂書店7階ギャラリーにて、
『はじまりが見える世界の神話』原画展の無料トークイベントがあります。
共著者の植先生とたっぷり1時間半の対談です。
神話にご興味ある方、ぜひお気軽に。

雨のち/『現代に生き続ける神話』


 
やっと晴れ間が続くようになり、夏めいてきた神戸。
幸い僕の家は豪雨の被害はなかったけれど、
近所では少し崩れた箇所もあり、
知人の中にはあわやという体験をした方もいた。
多くの方も同じなのかもしれないけれど、
降り出した当初はいつもと変わらない雨だと思っていた。
全国で被害にあわれた方の1日も早い平穏をお祈り申し上げます。
 
テレビを持たないので、家人がかけたポータブルラジオで雨の情報を拾っていた。
パソコンを通さないで聴くラジオの音はどこか非日常を思わせたけど、
その情報はネットで雨雲のCGを追うのに比べて幾分実感があった。
 
鳴り止まない大きな雨音に疲弊する中、
ふと随分昔に読んだ小説を思い出した。
異常な雨が降り続き、そのせいで世界が水没していくのだが、
確か、一人の女の子が記した日記に沿って、
水位の上がっていく様子が刻々と描写されるという内容だったかと思う。
始めは雨が降り止まないことに嘆くような調子が、
まわりの大人の行動などを通して少しずつその事態の非常さに気付き、
気付いた頃にはもう今までの日常を失っている、という。
ここまで書いて、確か椎名誠の『水域』だったなと思い、
手元に本が無いので検索してみたら、かなり内容が違うようだった。
物語の中の一部分だったのかもしれない。もしくは全く別の本か。
どちらにしろ、その他の部分は全て抜け落ちて、
唯一この件だけが、読中の肌寒い感触と合わせて記憶に残っている。
 
僕はとにかく鈍感で反応の悪い人間なのだけど、
それ以上に「あまり悪いことを想像したくない」という気持ちが日頃から強く、
まさに「正常性バイアス」のかかった人間である。

※正常性バイアス
自分にとって都合の悪い情報を無視したり、
過小評価したりしてしまう人の特性のこと。自然災害や火事、事故、事件などと
いった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な
日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、
「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、
逃げ遅れの原因となる。 (Wikiより)
 
都合の良いことばかりに向いた想像力は、芸においても、
生きることにおいても、きっと大したものは生み出せないだろう。
上に書いた通り、僕は危機感に欠けた能天気な人間ではあるけれど、
一方で「絵はただ楽しく描けばそれで良い」という類いの言葉は信用していない。
それは僕がアトリエでただ一枚の絵を描くことと、
別の場所で起こっている戦争や災害とは決して無関係ではないし、
見る側の人間もそれを完全に分けて鑑賞することは不可能だと思っているからだ。
それは時代が同じだからというより、
芸術を通して得る喜びと戦争や災害が生む苦しみはコインの裏表であり、
それはいつどんなときでもひっくり返る可能性があることを意味しているのだ。
(僕の憧れる画家たちの絵にはそのことが通奏低音のように響いている。)
 
日本の気候は既に変わってしまった。
きっと世界の気候も変わってしまった。
“今まで通り”は通用しない。
だとしたら、いったいどうやって生きていけばいい。
 
この世界が始まった頃から、
言わば人間による世界の認知が始まった頃から、
人は全く同じ問題に繰り返し直面してきた。
圧倒的な自然のパワーにあてられた人類は、
“畏怖と想像力”によりその力を反射させ、物語を描いた。
それが「神話」だ。
そこには現代科学とはまた違った種類の真実が示されている。
科学による災害への予測はこれからも少しずつ進んでいくだろうが、
それとは別に、これからの僕らはデータには表れない真実にも
眼を向ける必要がある。
 
さて、ここにすばらしい機会がある。
『はじまりが見える世界の神話』でご一緒させてもらった植朗子先生の講演会が、
来る7/28(土)、京都府立大学にて開催される。
同じくお世話になった横道先生からのご依頼で、
そのシンポジウムのチラシに絵を描かせていただいた。
デザインはこれも本でお世話になったSu-の角谷さんが担当された。
学祭シンポジウム『現代に生き続ける神話』は、
誰でも参加でき、予約不要で、しかも無料の講演会だそうだ。
お近くの方はぜひ足を運んでいただきたい。
もちろん、僕も行きます。
 
僕のこの神話熱が、誰かに移って、それがまた移って、それがまた移って…
少しずつでも広がっていったら良い。
芸術に等しく、神話も社会に対して有効なのだから。

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