Pictures for Books, Books for Pictures.


 
そろそろ方々にチラシが渡っているころだと思う。
あっという間に8月の背中が見えてきた。
もうすぐiTohenでの展示が始まる。
3年前の初個展も同じく8月だった。
あのときは描き下ろしだったけれど、今回は絵本の原画がメインになる。
 
自主レーベルのKiteから『みち』の私家版を刊行したのが14年秋。
直後に始めたTwitterでiTohenをフォローしたのをきっかけに、
鰺坂さんがwebショップから『みち』を注文してくれた。
 
そこから起こった出会いの連鎖は次第に形を帯びて、
4年の間に計4冊の本が出版され、
絵本の原画展を含めれば20近い場所で展示の機会をいただいた。
またその間に拠点は東から西へと移り、
今は生まれて初めて海辺の町で暮らしている。
 
4年前とは付き合う人も様変わりした。
そもそも、4年前はアルバイトと家の往復だけで、
休日も家で絵を描くか、外出しても家人と映画を観に行くぐらいで、
長いこと人付き合いというものを持っていなかった。
それを思えば随分人と会うようになったと思う。絵と本のおかげだ。
僕にとって彼らはいつでも橋をわたしてくれる存在なのだ。
 
特に区切りをつけたかったわけではない。
ただ、長かった巡回展の最後に4冊の絵を同時に並べるというアイディアが
自然と浮かんで来た。それは最後の場所がiTohenだったからであろう。
 
『みずのこどもたち』の巡回展の最終地がiTohenだったのは偶然ではない。
この絵本のきっかけになった初個展『running water』の開催地で終わることは、
絵本の原画展としては異例の長さである全国巡回を計画するにあたって、
最初に決めたシナリオだった。
 
当然、振り返るだけの終わり方はしたくない。
これまでとこれからが同時に見えてくるようなものにしないと。
僕は、絵を始めてからこのかた、ずっと一続きのイメージを描いている。
今もまだその途中だということを、並べることで見せたいと思う。

『Pictures for Books, Books for Pictures.』は8/3から。

 


 
日付変わって本日21日(土)の15:00から、梅田のジュンク堂書店7階ギャラリーにて、
『はじまりが見える世界の神話』原画展の無料トークイベント。
編著者の植朗子先生と再びご一緒します。
 
前回ポポタムでの植先生との対談の録音を編集の内貴さんから頂き、
先ほど通して聴き直してみた。
自分の声を録音で聴くあの居心地の悪さは皆経験があると思うが、
僕はそれに加えてもうひとつの奇妙な感触を持っている。
それは自分の声が双子の兄の声に聴こえるのだ。
喋っている内容は記憶に新しいし、間違いなく僕が話しているのだが、
その口調、間の取り方、口癖まで、まるで兄がしゃべっているみたいなのだ。
聴いていると何だか分裂するような感覚に襲われる。
僕はこんなにも兄と喋り方が似ているのか。
 
双子はよく神話のモチーフに登場するらしい。
そのへんも明日植先生に聴いてみよう。

絵を描き続けていくために


 
先週の土曜日、iTohenにて『_act_ LAYER』展の座談会に参加させてもらう。
登壇者はactの城下浩伺さん、TACOさん、林智樹さん、
ゲストにマリアーネさん、宇加治志帆さん、そして僕の計6人。
actのプロデュースを手掛ける林さんを除く全員が画家、美術作家。
そして当然聴衆の中にも作家さんがちらほらと。
ゆるく話しましょうと言いながら、
絵の話で真剣にならないわけがない、そんな空気だった。
座談会はホストである林さんの宣誓ではじまり、次第に熱を帯びていった。
大きく見れば、この日のテーマは「どうやって美術家として生きていくか」
ということだったと思う。
 
富裕層に席巻された現代アートの行き詰まり。
自分の感覚から大きくずれる作品の値段。
絵を誰に向けて売るのか。
そもそも描き手は売り手を選ぶことができるのか。
ギャラリーの役割。
所属しないこと。個人であること。
セレクトショップと絵。
インテリアとしての絵。
本屋と絵。
絵を買うことが日常になるために。
家にある絵と美術館にある絵。
大きな箱で絵を見せたいという想い。
展示することを目標としない。
生活の中から生まれる作品。
絵を描かないこと。
 
話はぐるぐる飛び回り、気付けば3時間の長丁場。
(話している僕らが一番楽だったであろう。)
それぞれがそれぞれの希望を携えながら、
それぞれのペースで制作に打ち込んでいることを知る。
奇しくも、僕らは皆“業界”に見切りをつけた作家だった。
一廻り、二廻りと絵を描き続けた結果、
個人として作品を作り、好きな場所で、
好きな値段で発表するようになった作家だった。
同士だった。
 
絵を描いて生きていくためにはどうしたら良いのか。
絵描きの僕らはどうしたらもっと生きやすくなるのか。
ひとつの答えは「個人でいること」なのではないだろうか。
 
絵を描き始めた頃、絵描きの大先輩に、
「画家になったらお金の問題は死ぬまで付きまとうよ。」
と言われたことがある。先輩は続けて、
「でもね、絵を描く喜びを知ってしまったら、それぐらいの代償はしょうがないのよ。
そんな中で絵を続けていくために必要なことは3つ。
1つ目は“健康”。絶対病気はできないよ。最後は身体だから。
2つ目は“仲間”。価値を共有できる仲間を持つこと。
3つ目は“根拠の無い自信”。この3つがあれば、大丈夫。」
 
幸運にも1つ目は持っている。
(今のところだけれど。)
2つ目はここ数年で増え続けている。
(新しい出会いに感謝。)
そして3つ目は、たまに落としたり、また拾ったり。
(いつか拾えなくなるのでは、という心配は常にある。)
 
帰りの電車でもまだ頭が熱っぽく、
記憶を必死に反芻していたら降り過ごしてしまった。
のぼりの最終電車は既に無くなっていた。
マンガ喫茶で時間をつぶし、夜明けの漁港を眺めてから始発で帰った。
 


 
来週もお話します。今度は自分の企画で。
21日(土)の15:00から、梅田のジュンク堂書店7階ギャラリーにて、
『はじまりが見える世界の神話』原画展の無料トークイベントがあります。
共著者の植先生とたっぷり1時間半の対談です。
神話にご興味ある方、ぜひお気軽に。

雨のち/『現代に生き続ける神話』


 
やっと晴れ間が続くようになり、夏めいてきた神戸。
幸い僕の家は豪雨の被害はなかったけれど、
近所では少し崩れた箇所もあり、
知人の中にはあわやという体験をした方もいた。
多くの方も同じなのかもしれないけれど、
降り出した当初はいつもと変わらない雨だと思っていた。
全国で被害にあわれた方の1日も早い平穏をお祈り申し上げます。
 
テレビを持たないので、家人がかけたポータブルラジオで雨の情報を拾っていた。
パソコンを通さないで聴くラジオの音はどこか非日常を思わせたけど、
その情報はネットで雨雲のCGを追うのに比べて幾分実感があった。
 
鳴り止まない大きな雨音に疲弊する中、
ふと随分昔に読んだ小説を思い出した。
異常な雨が降り続き、そのせいで世界が水没していくのだが、
確か、一人の女の子が記した日記に沿って、
水位の上がっていく様子が刻々と描写されるという内容だったかと思う。
始めは雨が降り止まないことに嘆くような調子が、
まわりの大人の行動などを通して少しずつその事態の非常さに気付き、
気付いた頃にはもう今までの日常を失っている、という。
ここまで書いて、確か椎名誠の『水域』だったなと思い、
手元に本が無いので検索してみたら、かなり内容が違うようだった。
物語の中の一部分だったのかもしれない。もしくは全く別の本か。
どちらにしろ、その他の部分は全て抜け落ちて、
唯一この件だけが、読中の肌寒い感触と合わせて記憶に残っている。
 
僕はとにかく鈍感で反応の悪い人間なのだけど、
それ以上に「あまり悪いことを想像したくない」という気持ちが日頃から強く、
まさに「正常性バイアス」のかかった人間である。

※正常性バイアス
自分にとって都合の悪い情報を無視したり、
過小評価したりしてしまう人の特性のこと。自然災害や火事、事故、事件などと
いった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な
日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、
「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、
逃げ遅れの原因となる。 (Wikiより)
 
都合の良いことばかりに向いた想像力は、芸においても、
生きることにおいても、きっと大したものは生み出せないだろう。
上に書いた通り、僕は危機感に欠けた能天気な人間ではあるけれど、
一方で「絵はただ楽しく描けばそれで良い」という類いの言葉は信用していない。
それは僕がアトリエでただ一枚の絵を描くことと、
別の場所で起こっている戦争や災害とは決して無関係ではないし、
見る側の人間もそれを完全に分けて鑑賞することは不可能だと思っているからだ。
それは時代が同じだからというより、
芸術を通して得る喜びと戦争や災害が生む苦しみはコインの裏表であり、
それはいつどんなときでもひっくり返る可能性があることを意味しているのだ。
(僕の憧れる画家たちの絵にはそのことが通奏低音のように響いている。)
 
日本の気候は既に変わってしまった。
きっと世界の気候も変わってしまった。
“今まで通り”は通用しない。
だとしたら、いったいどうやって生きていけばいい。
 
この世界が始まった頃から、
言わば人間による世界の認知が始まった頃から、
人は全く同じ問題に繰り返し直面してきた。
圧倒的な自然のパワーにあてられた人類は、
“畏怖と想像力”によりその力を反射させ、物語を描いた。
それが「神話」だ。
そこには現代科学とはまた違った種類の真実が示されている。
科学による災害への予測はこれからも少しずつ進んでいくだろうが、
それとは別に、これからの僕らはデータには表れない真実にも
眼を向ける必要がある。
 
さて、ここにすばらしい機会がある。
『はじまりが見える世界の神話』でご一緒させてもらった植朗子先生の講演会が、
来る7/28(土)、京都府立大学にて開催される。
同じくお世話になった横道先生からのご依頼で、
そのシンポジウムのチラシに絵を描かせていただいた。
デザインはこれも本でお世話になったSu-の角谷さんが担当された。
学祭シンポジウム『現代に生き続ける神話』は、
誰でも参加でき、予約不要で、しかも無料の講演会だそうだ。
お近くの方はぜひ足を運んでいただきたい。
もちろん、僕も行きます。
 
僕のこの神話熱が、誰かに移って、それがまた移って、それがまた移って…
少しずつでも広がっていったら良い。
芸術に等しく、神話も社会に対して有効なのだから。

白シャツ/7月の予定


 
豪雨の神戸。また雨降りの日に書いている。
この前と違うのは、今日はアトリエに猫が寝ている。
 
仲良しの野良の黒猫で、
胸のところだけにちょっぴり白い毛が生えているのが
まるでタキシードを着ているみたいだから、
「白シャツ」という名前をつけて可愛がっている。
 
よく鳴く猫で、
初めて会った時もこっちの顔をみながらみゃーみぁー鳴いていた。
 
犬しか飼ったことがなかったから、猫への接し方がわからず、
最初は嫌がられてばかりだったけど、猫歴のある家人の指導もあって、
今では撫でたり、顔をこすりつけたりできる仲になった。
軽度の猫アレルギーなので、調子にのると眼のかゆみとくしゃみに襲われるが、
仲良くなれたのが嬉しくて、ついついやってしまう。
 
先の展示でも猫の絵を数枚展示した。
少し前までは「この猫人気のご時世に猫なぞ描いてたまるか!」
と息巻いていたのに、最近は展示毎に猫の絵がじわじわと増えている。
それも毎日のように遊びにくる「白シャツ」を見ているからで、
改めて、絵描きは見ているものからは逃がれられないんだなぁと痛感した。
 
と、珍しく猫の話を書き出した途端、
しーちゃん(白シャツの通り名)は開いたドアから外へ出て行ってしまった。
こういうところが良い。勘がいいね、君は。
 
改めまして。
『みずのこどもたち』原画展 / こどもたちよ どこへゆく
お越しいただいたみなさん、どうもありがとうございました。
これで『みずのこどもたち』原画展は一区切り。
続く8月大阪iTohenでの展示では、
ツアーファイナルということで特別企画を用意しています。
乞うご期待。
 
 
【7月の予定】

◉大阪凱旋。7/10(火)-7/23(月)に、ジュンク堂梅田店にて
『はじまりが見える世界の神話』原画展を開催。
7/21(土)15:00~は無料のトークイベントがあります。
ポポタムでもご一緒した植先生と再び話します。
たっぷり1時間半。お気軽にご参加下さい。
 
◉7/12(木)は大阪iTohenにて月1の昼の学校「絵本創作教室」&夜の学校「デッサン教室」開校日。
どちらも初心者大歓迎です。気軽に絵を描く機会になれば。ぜひ一度覗きに来て下さい。
 
◉7/14(土)17時〜、同じくiTohenで開催中の展覧会『_act_ LAYER』にて、
“お話し会”にゲストで参加します。
会期中3つのお話会と1つのトークイベントが開催されるそうですが、
僕は初回の<dialog 1 : ATELIER>の回で、他数名の作家さんと一緒に絵の話をします。
たぶん、穏やかかつ、真剣なお話会になりそうな予感がしています。
観覧は予約不要で1ドリンクオーダーです。こちらもどうぞお気軽に。
 
 
しばらくは8月の展示に向けて絵を描く日々です。
 
呉 智英 著『つぎはぎ仏教入門』読了した。
なんとなく仏教の全体像がつかめたところで、
改めてお休みしていた松長有慶 著『密教』を読もう。
その前に今夜はこれも残り2章で止まっている
ブライアン・エヴンソン『遁走状態』を読んでしまいたい。
読書のペースが上がらないのが昨今の悩みです。

松本簡単日記② と「こどもたちよどこへゆく」について


 

 
夕方から続く大雨と雷が止まない深夜の神戸。
雨が弱まるたびに猫の鳴き声が聞こえる。
 
先週末は再び松本に滞在してきました。
『みずのこどもたち』原画展 / こどもたちよ どこへゆく
残すところあと2日。この日曜日でおしまいです。
終わる前に2度目の滞在日記を書いておかなければ。
 
23日(土)大阪発の夜行バス。運転が荒い。旅のお供は田我流とPharaoh Sanders。
出発して間もなく、何か光る大きな建造物が目の端を過ぎたのに気付き振り返ると、
それは太陽の塔だった。光の出所はその目だった。
夜の太陽の塔を初めて見たが、異様で美しかった。
もし今の時代、あのような国家プロジェクトがあったとして、
岡本太郎に代わってそれを担うのはいったい誰なんだろうと、
バスに揺られながら眠い頭でぼんやり考えた。
結局誰一人思いつかなかった。
 
翌朝6時前に松本到着。30分早い到着。快晴。
喫茶店が開くまで歩いて時間をつぶす。
パルコの玄関の池に鯉が泳ぐ。ちょっとした隙間に見る城下町的風景。
古くて素敵な布団屋。「帰ってくる場所をつくるためにマイ座布団を持て」との広告。
7時。「珈琲美学アベ」にて朝食。古い。落ち着く。
コーヒーカップを持ち上げると下のソーサーに文字が。
「悪魔のように黒く恋のように甘いコーヒーを」
 
まだ8時すぎ。川沿いを散歩する。
神社にお参りした後、境内の近くで既に開いている古道具屋というよりジャンクショップ。
レコードを見ていると、やさしい店主のおじさんが蓄音機を掘り出して聴かせてくれた。
慣れた手つきでネジを巻くと、びっくりする程張りのある音量で歌謡曲が流れる。
電気が無くても音が鳴ることに感動。南部鉄器の鉄瓶を買う。800円まけてくれる。
 
栞日在廊。再び『つぎはぎ仏教入門』を片手に。窓から良い風が入る。
扇子屋のvent de moeさんと再会。今日から1階のスペースで展示が始まり、
在廊ついでに旦那さんとお子さんと一緒に見に来て下さった。
先月on readingで展示をしたときにもちょうど隣のギャラリーで展示をされていて、
その際、また松本でもかぶりますね、奇遇ですね、と話していた。
moeさんもブックデザイナーの旦那さんも、まだ絵を買ったことがないから買ってみたいと、
良い機会かもしれないと話して下さった。
この間のポポタムでもそうだったけど、僕の展示では本当にこういうことが少なくない。
価格も大きな理由だろうけれど、本の側で絵を飾っているせいもあると思う。
 
本を買う延長線上に、絵を買うという行為を置くことができると以前より考えている。
それは生活雑貨を買う延長線上とは少し違う。
どちらが正しいと言うわけではないかもしれないが、僕は前者のような買い方に面白味を感じる。
 
本・中川へ移動。
お店のお客さんが代わる代わる訪ねて来て、皆丁寧に見てくれる。
本・中川の展示は今までの中でもかなり本と絵が近い。
でも不思議と窮屈に見えないのは、きっと相性が良いのだろう。
絵が気持ち良さそうに呼吸をしている。
この日のBGMはアフリカのホピ族の音楽。
ウォータードラムというものがあって、
川で洗濯をしているお母さんたちが川の水をたたきながら歌を歌っているのだそう。
美しい光景が目に浮かぶ。
旅行中のマルーさんがご来店。初めてお会いできた。
同業者の方との出会いは人より絵のほうが早い場合が圧倒的に多く、
大体はそのギャップにびっくりする。
マルーさんの絵は可愛らしくもアンバランスな激しさがあって、
どんな人がずっと気になっていたのだけれど、本人はいたって謙虚でまろやかな人でした。
人がひける隙間で棚を物色。
ささめやさんが絵を描いた「幻燈サーカス」というとんでもない絵本に出会う。
祖父江さんのデザインがはまっている。中川さんの蔵書だったそう。ありがたく購入。
いつも金沢のオヨヨ書林の展示に来てくれるNちゃんが富山から来てくれる。
車で3時間だと。東京からと同じくらいか。長野は真ん中なんだ。面白い立地。
それでも3時間も運転して見に来てくれるのは嬉しい。いつもありがとう。
 
閉店後は中川さんのご友人たちと「チャイナスパイス食堂」へ。通称チャイスパ。
店名そのまま、スパイスをふんだんに使った中華。べらぼうにおいしかった。
ゲストハウス1泊。
 
翌日は観光。上高地まで足を伸ばし、久しぶりに野を歩く。
松本に戻って銭湯行って蕎麦食べて、
エオンタというジャズ喫茶でジャズを聴いてからバスで帰路につく。
 
こうして振り返ると、また色んな人に出会ったなぁ。
原画展で訪れた町で、ここ松本と熊本は格別だった。
また新しい絵が描けたら持ってこよう。
 
最後に、展示の副題「こどもたちよどこへゆく」に少しだけ触れておく。
以前より絵を通して“普遍性”に触れたいという思いがあった。
そのためにルーツを遡ることで何かが見つかるのではと思っていた時期があった。
でもひょんなきっかけで、“普遍性”というものは流れの中にあるのだと直感し、
そこから水をテーマに選んだ。
今降り続ける雨も、どこかからきてどこかへ向かう。
絵も他ではない。
仏教に「諸法無我」という言葉がある。
「移ろいゆくあらゆる事物には、永遠普遍の真実などない」という意味だそう。
1年以上に及んだ巡回展もフィナーレを迎える今、
過去の自分が描いた絵に向かって「これからどこへゆく」と尋ねたい気分がある。
気分で副題をつけてしまったわけだけど、この気分は何だかしばらく続きそうな予感がしている。
どうやら僕の場合、絵というものは「答え」ではなく「問い」の中からしか生まれないみたいなので、
こうして右往左往し続けるしか道がないのはもう重々承知なのだが、
そもそも上にあげた「諸法無我」は“執着”を捨てて覚りを開くための思想であって、
執拗に絵を(絵で)問いつめる絵描きとはどんな業を背負ってしまったのかと自嘲気味に思ったりもする。
これは昼寝する猫を眺めてても思うことなのだけれど。
話が逸れそうだ。いい加減終わろう。
 
『みずのこどもたち』原画展 / こどもたちよ どこへゆく
今週末は在廊で来ませんが、お近くの皆さん、どうぞよろしく。
 
 
photo : Kano Chihiro

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