『振|生|複|弦』(分断を超えていくための四文字)


 
1月の開催延期を経て、6月6日(土)より宇加治志帆さんとの二人展
『振|生|複|弦』(シン|セイ|フク|ゲン)が大阪のiTohenにてスタートする。
未だ「ぜひ来て下さい」とは言いづらい状況ではあるけれど、
お近くの方には無理のない範囲でお立ち寄り頂けたらとても嬉しい。
 
宇加治さんと初めてお会いしたのは2018年の夏。
iTohenで行われた林智樹さん主催のトークセッションだった。
自分と彼女を含む5人の作家と1人のキュレーターが美術について3時間超の熱い議論を交わしたのだが、
あの日は興奮のあまり終電車で駅を降り過ごし、家に帰れなかった程だったのでよく覚えている。
その中でとりわけ印象深かった彼女の言葉がある。
 
「自分の作るものを好いてくれる人達がちゃんとその人として生きられるように、
私はこれからも作り続けていくのだろうなと思うんです。」
 
少し時が流れて昨年末、iTohenの鰺坂さんから二人展の打診があり、
「誰か一緒にやりたい方いますか?」と聞かれてしばし考えた時、ふと宇加治さんのことを思い出した。
昨年から取り組んでいる布の作品を発展させたくて、
布を使って表現している作家さんとやってみたかったというのが一番シンプルな理由だが、
あのトークセッションでの彼女が語ったいくつかの言葉の記憶が妙にクリアに残っていて、
ただ美術や表現ということについてもう少し彼女と話してみたいという想いがあった。
結局あれから一度も交流がない中で、いきなり声をかけられてとても驚いただろう。
最初の打ち合わせに現れた彼女の顔には「何で私が呼ばれたのだろう?」とはっきり書かれていたけれど、
それは話をするうちにすぐに消え失せた。
 
彼女のキャリアはフレスコ壁画の修学から、絵画、立体、
現在手がける被服やアクセサリーブランドまで多岐にわたる。
どうして壁画からそういう方向に進んだのかと尋ねたら、
「壁画は家が刺青を入れているみたいだと思ってたんですよね。それがはじまりかな。」
と返って来て、僕は感嘆の声と共に深く頷いた。
先述した彼女の言葉からも分かる通り、彼女の表現はとてもパーソナルなものだ。
表現の媒体が何であろうと「人一人が生きていくための芸術」という思想が通底しているように思う。
その一人とは受け手だけでなく彼女自身も含まれる。
彼女の作品は一見すると明るくもあるが、同時にヒリヒリとした痛みが隠れているように思えてならない。
僕はそこに人一人が生きていくことの困難さを重ね合わせたくなる。
激しい絵の具の飛沫に。奔放に伸びる縫い糸に。
 
まだ緊急事態宣言が出る前の3月末、
打ち合わせがてら引越したての彼女の家を訪ねて一緒に手を動かした。
丸二日、針を動かしながら色々な話をした。
彼女がはまっているという宇宙理論の話や、今まで読んできた本の話、
それからコロナやそれに翻弄されている現代社会のこと。または「正義」と「悪」について。
「前の状態に戻るということは決してないし、戻ってはいけない。」
と彼女は繰り返し、僕はその度に同意を示した。
今までに作られた枠をどうやって取り除いていくか。
僕は彼女に作品の欠片を手渡すことで、彼女は僕の作品を元に創作を行うことで、
各々の主体性に揺さぶりをかけることにした。
また僕は彼女を真似て、自分の絵を縫い込んだ服を作ることにした。
動植物の絵を身に纏うことを通し、「輪廻」というものへ想いを馳せてみたかった。
自己を解きほぐした先に異種との重なりを見出したかった。
 
僕ら二人は一緒に創作することで「生きている」ことを捉え直そうと試みる。
人は「他者」の存在を得て初めて「一人」になるというが、
種を超え、時や場も超えた連なりの中に「人一人が生きていく」ことの感触があると僕らは期待する。
タイトルに並べたのはそんなあらゆる分断を超えていくための四文字。
「“共生”とはまた違うんですね、自分自身の形が変容する、何かが外れる。
そして生まれてきたものの中に、確かに、自分は、存在しているという確信みたいなもの。」
創作中のメールのやりとりで彼女から受け取ったこの言葉には、
その分断を飛び越えたことの驚きと喜びが既に見て取れる。
希望は紛れもなくそこにある。

 
 


 
◉宇加治志帆・阿部海太 二人展
『振|生|複|弦』 @ iTohen
6/6(土) – 6/29(日)
11:00-18:00 土・日・月OPEN
(火-金CLOSE)

共作を含む、絵画、布、服、アクセサリーなど、
異なる媒体を横断し制作したものを展示販売します。

宇加治志帆
iTohen

オンライン本屋トークVol.2『今、本屋に会いに行く』


 
あらゆる分断が進みつつあるこの時代に、奇しくも拍車をかけるかのようなこのコロナ禍。
愛と想像力を欠いた社会の現状を突きつけられている今、本の作り手として、また一本好きとして、
僕は改めて「本」そして「本屋」の意義というものを捉え直してみたいと思いました。
人々が活動自粛を迫られる今、本屋を営む人たちはいったいどんな思いを抱えているのか。
vol.1に続き、新たに4人の個人書店店主をお招きし、
ライブ配信(zoom)によるオンライン本屋トークvol,2を開催します。(阿部海太)
 
【 開催日時 】
2020年4月25日(土)21:00~
参加費無料
 
【 話し手 】
● ブックギャラリーポポタム / 大林えり子
http://popotame.net

● SUNNY BOY BOOKS / 高橋和也
http://www.sunnyboybooks.jp

● 本・中川 / 中川美里
https://honnakagawa.tumblr.com

● ナツメ書店 / 奥由美子
https://natumesleep.com
 
【 企画・聞き手 】
● 阿部海太(絵描き、絵本描き)
 
【 テーマ 】
< 1. 現状の様子>
現在のお店の様子や、それに伴う問題など、情報や意見を交換。

< 2. お店を開けるということ。閉めるということ。>
コロナウイルスの感染拡大を考慮して、お店を開けるにしろ、閉めるにしろ、
街に本屋があるということ、そのこと自体への問いや答えについて考えを
巡らしていることと思います。
またそこから、今後本や本屋がどのような役割を担うことが可能か、
現状だけでなく、未来へ向けた話ができればと思います。

< 3. 本の紹介>
今、そしてこれからの時代に読みたい本、
読んでもらいたい本を数冊、各人からご紹介頂きます。
 
【 視聴方法 】
今回はzoomによる配信を行います。
スマートフォン、タブレットをご利用の方は「zoom」のアプリが必要です。
無料で配布されていますので、あらかじめダウンロードしておいてください。
またログインに必要なURL、ID、パスワードを事前にお伝えしますので、
事前に下記までメールで受付をお願いします。

mail@kaita-abe.com
 
【 注意点 】
Zoomへのログイン時、ビデオ(カメラ)のオン・オフが求められます。
オンを選ぶと画面にご自身の顔が映りますので、もし映したくない場合はオフをお選びください。
またログイン後、画面左下にあるマイクボタンがミュートになっているかどうか
ご確認をお願いします。(赤い斜め線が入っていればミュート状態です。)
もしトーク中にご質問などあれば、チャット機能でお伝え頂けたらと思います。
どうぞご協力お願い致します。

だから本屋はなくなってはいけない


 
ここ数日、本屋のことを想っている。
友人が営む馴染みの本屋や、原画展でお世話になった遠い町の本屋のことを。
 
コロナウイルスの感染拡大が進む中での一時閉店や客足減少の影響は、
町の小さな本屋の存続を脅かす緊急の事態だろう。
政府は自粛を要請するばかりで一向に補償を申し出ず、
さらには職種や国籍で差別を繰り返している。
 
緊急事態。不要不急。
そう言いながら為されている政府の施策には、
今日までのこの国の稚拙さが膿のように凝縮されているように見える。
思えば、出版や文化芸術は平時から「不要不急」と言われ続けてきたようなものだ。
緊急時なら尚更構っていられない、というのが本音なのだろう。
 
しかしどうだ。
このストレスフルな状況下で、
人は人に優先順位をつけ、互いを執拗に監視している。
政府は助けを求めるか細い声をただ無いものとして、
ただ取り巻き達の欲求を満たすだけの対応に終始する。
もはや戦前というより戦時下のようだ。
しかし重要なのは、これは何もつい今しがた起こったことではないということ。
ずっと、ずっと、絶え間なく起こり続けていることの先端が、今なのだ。
 
決して小さくないこの島国の端から端に、たくさんの人々が暮らしている。
様々な歴史を抱いた土地に、様々なルーツをもった人が、今も、昔も、暮らしている。
一人一人に生活があり、語られるべき物語がある。
 
顔も名前も、住んでいる街も知らない人。
どんな家に住んで、どんなご飯を食べて、どんな言葉を喋るのか。
何を考え、何に悩み苦しみ、何に喜び笑うのか。
人は人の身になることはできない。
でも本を読めば、自分の全く知らない場所で、
こんなにも人が生きている、ということを感じることはできる。
こんなにも人生とは複雑で多様なものか、と己の視野の狭さを恥じることはできる。
その積み重ねを欠いてしまったらいったい何が起こるか。
この国の姿が答えだ。
 
執拗に絆や団結を呼びかける空気は、
声の小さな人々をただすり潰して抹消しているだけではないか。
そこに人ひとりの生への想いは一体どれ程残っているのだろう。
きっと知らないのだ。人が、こんなにも生きている、ということを。
 
前に、blackbird booksの吉川さんが「本は人だ」と教えてくれた。
色々な本を読むことは色々な人に出会うことだ。
もちろん、直接会えるなら会いに行けばいい。
でも本なら亡くなった人にも会いに行けるし、使う言語が違っても訳書がある。
それに本を通してしか語り得なかったことが、この世には本当に沢山あるのだ。
 
思えばずっと緊急事態だった。
そして本を読むことはいつだって不要不急ではない。
本は嗜好品なんかではない。
生きるために、歴史を繋いでいくために、
僕らはもっと本を読んで学ぶべきだ。
 
だから本屋はなくなってはいけない。守らなければいけない。
夕暮れの街の小さな本屋から漏れる明かり。
あれはこれからの僕らの生きる道を指し示す灯台の光だ。
僕は自分にできることを考えたい。

 
 
撮影:加納千尋


 
◉4月16日に開校予定だったiTohen『デッサン教室』は、
コロナウイルスの感染拡大の影響でお休みします。
5月についてはまた状況を見て判断いたします。
少しでも状態が落ち着くことを願って。またみんなで描きましょうね。

2月の輪郭


 
READAN DEATでの個展からまる一月経ってしまった。
溜め込んだ仕事をようやく片付け、
ほっとした気持ちで一月ぶりに『ICON』のステートメントを読み返したら、
もはや一月どころではない距離を感じてしまった。
 
事実、ここ一月の間に起こったコロナウイルスと、
それに関する憂鬱な騒動の数々(まるで3.11を彷彿させる)によって、
現実は唐突に更新されてしまった。
そして僕の方はといえば、その新たな現実に対応するため、
夏に向けて二つの目標を立てたところだ。
ひとつはジャガイモを育てること。
もうひとつは服を自力で作ること。
 
少しでも自らの手で食物を作れるようにならなければならない。
どうせなら腹持ちが良いものとジャガイモの種芋を買ってきて、
ずっと庭に放置していた腐食の進んだ太い切り株をスコップで掘り起こし、
こぢんまりとした耕作地を拵えた。
そして小学校から大の苦手だった裁縫(僕が使うミシンは悉く糸が絡まった)。
それを克服するのは、たぶん今なのだろう。
生活に必要なものをひとつでも自分で作ってみたい。それも自由に。楽しく。
 
これらは遊びのようで、生きることを懐に手繰り寄せるためのささやかな一手。
 
こんな日々を迎えるとはつゆ知らずに書き上げた個展『ICON』への導入文は、
3月の自分にはひどく抽象的に思える。
ただ、これが2月の僕にとっては新しい現実だったのは本当のこと。
(濃霧の中、ずっと絵を描き木を削っているうちに見えてくる現実というものもある。)
だからそれは「抽象的」というだけで遠くなってしまったのではなく、
もうそれは言葉にしてしまったから、置いていくしかないものになってしまったのだろう。
何でない、いつものこと。
言葉にした瞬間から放って、次の何かを拾おうとする。
 
言葉というものは便利なものだと思う。
イコンも物語ることなくしてその価値はないし、
例え上滑りしたとて、輪郭を描く力だけは確かに持っている。
今回僕は言葉で美術史を遡り、
言葉で信仰とイメージの境目を見つけようとした。
結局境目なんて「ない」ということは、
絵を描くことを抜きに実感はできなかったのだけど、
それでも「ない」という言葉すらも虚空にひとつの輪郭を与えてくれる。
 
遠く過ぎ去った2月の輪郭を、改めてここに残しておく。
 
 

【ICON:イコン】
一般的にキリスト教(正教会)において崇敬の対象とされる「聖像」のことを指す。
「影像」「表象」などを意味する古典ギリシャ語の[eikon](エイコーン)から派生した言葉。
 
並んでいる「像」は皆ここひと月の間に生まれたものだ。
彼らは拝むためのシンボルでもなければ語るべき物語も持っていない。
イコンというタイトルを冠しながら、「神」や「聖なるもの」を描くつもりは最初からなかった。
テーマはただの印であって、タイトルも家の表札ぐらいに思ってもらいたい。
ただ、表札を掲げることで見えてくるものも少なからずあるのだ。
 
彼らはどこからやって来たのだろう。
流木の曲がった形や筆の走った跡、ヨレた布のシワや引っ掻き傷。
まずはこういった偶然が「像」を象った。
正確に書けば、内側に浮遊する「無形のイメージ」が、
ある偶発的な痕跡に触れることで目に見えるフォルムを手に入れた。
それは時に見慣れたモチーフに化け、また時に得体の知れぬ何者かになった。
ただそこに現れた者はもともと混沌の中で一緒に揺れていた兄弟たちであり、
それぞれ別の種から生まれてきたわけではない。
 
それでは「無形のイメージ」とはどこからやって来るのだろう。
経験、記憶、日常、物語、未知。人は見たことのあるものからしか形を生み出すことはできない。
本当? わからない。
最近は大き過ぎるイメージに頼るより、
身近なものたちを鮮やかに捉えることのほうに越境の可能性を感じる。
度々登場する猫と犬は僕にとってそれぞれ特別な霊性を纏う。
猫は身近に居る類い稀な神秘として。
犬は息をひきとる瞬間を看取ることのできた唯一の生き物として。
目は彼らの姿を無関係な滲みや傷痕の中にいつも探している。
 
彼らがいったい何者かなんて、どう答えようとも言葉が上滑りしてしまう。
ひとつだけ言えることは、例えばイコンが神や聖人に会うための天にかける梯子だとしたら、
僕の作りたいものは天からの雨に舞い上がる土埃の香りだ。
地に足をつけたまま深く息を吸って、吐く。
僕はそういうところに創作のリアリティを感じていたい。
 
何かを表したくて絵を描いているわけではない。
ただその香りをずっと嗅いでいたいだけだ。
いつも、何度でも。

(『ICON』ステートメント / 2020.2.1)
 
 
撮影:加納千尋


 
◉『群像』4月号に絵を使って頂きました。
表紙、総扉、特集扉を担当しています。デザインは川名潤さんです。
表紙の絵は随分前のものですが、こうして再び見て頂けるのは嬉しいことです。
ぜひ書店にてお買い求めください。 (『群像』4月号
 

 

 

 
 

消えない走馬灯


 
「軽やかな絵を描こうと「風」をテーマに選んだ。
筆が風を追うように軽く柔らかく動けば少しは良い絵が描けると思ったのだけど、
それだけでは何かが足りなくて、もうひとつ、
自由に漂うという意味で「野良」という言葉を足した。
「野良」は野良仕事のほうではなく野良犬の「野良」。
身体的な自由さや浮遊感を求めて選んだ二つの言葉は、
描き進めるうちに少しずつその意味合いを変化させていった。
身体的束縛からの解放というイメージは、次第に「死後の世界」を映すようになった。
多くの絵に登場する犬は、僕が唯一息を引き取る瞬間を見届けたことのある生き物として、
さながらイコンのように何度も何度も絵の中に出てきては自由に駆け回った。
野良の魂となった彼らが走るのは僕が育った片田舎の風景で、
里山の麓の小さな町や、短い電車や、草の茂る空き地や、森の木々や、
そこに住む虫や動物たちも一緒に描かれている。
今や家もなくなり、帰ることのなくなった町は、
まるで失われた場所のように僕の記憶の中だけに残っている。
いつの頃からか、個人的な感傷を棚に上げて絵を描くようになっていた僕は、
喪失に関わるモチーフを選ぶことで久しぶりに絵を描き始めた頃の気持ちを思い出した。
まだ自分の気持ちを表す言葉を持たなかった頃の、あの漠然とした孤独をもう一度拾おうと思った。
そうして描き上がったたくさんの絵が並んだ姿は、僕にはまるで走馬灯のように見えた。」

(『風と野良』ステートメントより)
 
これはギャラリーでの5日間の滞在制作と展示の設営を終えたその晩に書いた文章。
疲れと興奮でぐちゃぐちゃした頭の中から言葉を選び出すのにとても苦労して、
これだけの文章を書くのに明け方までキーボードを叩いた。
 
ここ最近、過去を振り返るきっかけが次々と手元に集まって来ている印象があった。
それが個人的なこと(例えば年齢とか)なのか時代の流れに関わることなのかわからないが、
あまりに自分の足元を蔑ろにしてきたその現れのような気もしている。
 
展示の絵を描き始める少し前、岐阜の悠さんの家に遊びに行った時のこと。
黄昏時、悠さんの運転する車の助手席に乗ってぼぉっと窓の外を見ていると、
染まり始めた空に映る山のシルエットから目が離せなくなってしまった。
その盆地特有の景色は、僕が幼少から青年期を過ごした埼玉の片田舎にそっくりだった。
新興住宅地で育ったことで故郷の手触りなんて知らないと嘆き続けていた僕は、
なんてことのない山のシルエットが自分の体にくっきりと刻み込まれていたことに驚きを隠せず、
ひとり「あー、あー」とうわ言のような声を出した。
ステレオから流れる叙情的な音楽(「夕食」という名のバンドの曲)を聴きながら、
暗さ深まる山の影に、持つことのないと思っていた故郷の感触を確かめていた。
 
部屋に帰った後、悠さんが1冊の写真集を見せてくれた。
清野賀子という写真家の『THE SIGN OF LIFE』という写真集。
著者は既に自死で亡くなっていると聞かされた。
日本各地のどこにでもありそうな郊外を写したその写真にはまるで人影がなく、
そのせいか、その風景のどこかに自分自身の影が伸びて映っているような気がしてくる。
そこではっとする。
この写真を見て抱く気持ちは、僕が絵を描き始めたばかりの頃に抱えていた気持ちにそっくりだ。
まだ語る言葉を持っていなかった頃の寄る辺ない気持ちがそのままが写っているようだった。
あぁ、そうだった。最初はこういうふうだったんだ。
いったいぜんたい、あの頃の気持ちは何処へ行ってしまったのだろう。
僕はまたひとり「おー、あー」とうわ言を吐いた。
 
故郷がないなんて言ってみて、過去を見つめることをどこか避けていたのだろう。
普遍性を求めているつもりで、自分の感傷を覆い隠していたのだろう。
絵を描く中で、あの日見たふたつの景色の意味を僕は少しずつ理解していった。
絵は赤やオレンジに染まり、山が浮かび、犬が溢れ、寄る辺なさを残したまま仕上がった。
それはとても充実した時間で、遠い故郷を訪ねる旅のようだった。
 
絵の中の山はいつまでも大きくたおやかで、
絵の中の僕はいつまでも言葉を持つことはない。
いつか全てが記憶に替わっても、
絵だけが消えない走馬灯になって灯り続ける。
 
 
撮影:加納千尋


 
◉20年最初の展示は広島から。READAN DEATにて個展『ICON』を開催します。
油彩や布の作品他、新作の立体作品を展示販売します。会期は2/1-2/16。
2/2(日)はトークイベントもあります。ぜひお立ち寄りください。


 
 
◉12/25の毎日新聞にて、
国際子ども図書館で開催中の『絵本に見るアートの100年』についての記事の中で、
出展作家の一人としてご紹介頂きました。絵本と芸術を隔てることなくこつこつやってきた活動が、
こうして認知され始めたことをとても嬉しく思います。
web版はこちらから(有料記事です)。

『絵本に見るアートの100年』は1/19までの開催。
後期は『みち』(リトルモア刊)が出展されています。
原画ではなく絵本の展示ですが十分楽しめます。
 
 
フリーペーパー『鷗』3号、各店舗にて配布中です。お手にとっていただけたら嬉しいです。
 

NEW
OLD

サイト管理